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[エッセイ09:ひょんなことからNo.3]55年前の「恋バナ」から明らかになった海女の想い(齊藤 典子)
2019年02月08日
[ひょんなことから03]
55年前の「恋バナ」から明らかになった海女の想い
齊藤 典子
人類学研究所・非常勤研究員
今夏、私は2018年から開始した台湾の海女に関する共同研究(注)の一環として仲間と共に台湾の「北部浜海公路」(省道第2線)沿いの集落で調査を行いました。
台湾東北部の海岸沿いの地に「北部浜海公路」が開通したのは、1978年。それまで海女のYさんが住む新北市貢寮(Gòngliáo)から台北へは、海岸伝いに船で基隆まで行き、列車に乗り換え、1日がかりであったと言います。しかし、「北部浜海公路」ができたからといって、交通インフラや高校などの教育施設、あるいは商業施設などの無い地である事は今も変わりません。大型トラックだけが頻繁に行き交う道端で6人の海女と海士が朝から晩までドライバーや顧客相手にテングサを売っています。
「実はねぇー、一度ここを出て、台北に行って働いた事はあるよ。もう50年以上も前の話だけど」。
テングサの販路や価格について答えてくれた後、Yさんは突然、そう切り出しました。地響きを立てて走る大型トレーラーの音に声はかき消され、彼女が何を話そうとするのか、私には皆目、検討がつきませんでした。
「彼と結婚し、ここから出られると思ったら嬉しくってね。絶対、彼と結婚しようと思ったね。「でも、母親に『絶対だめだ。都会もんと結婚するのは!』って反対され、悲しかったね。彼の事、本当に好きだったから 」。
結局、会社の同僚との結婚話は消え、1年後に港の護岸工事にやってきた漁師の男性を婿に迎えた。その後、末子相続のYさんは、故郷を一度も離れることなくテングサを採り続けてきた。その夫も12年前に亡くなった。
「この話、内緒だよ。今まで誰にも話した事ないから、亡くなった夫にも近所の仲間にも。あんたが初めてだから」。
なぜ突然、恋バナを語りだしたのか。それも台湾語も北京語もできない日本人の私に。
北部浜海公路端でテングサ売りをする海女(撮影:新垣夢乃) |
2015年夏、私は「潜水漁を行う海女は、済州島と日本にしかいない」という、これまで流布されていた言説を確かめようと、「北部浜海公路」沿いの集落を訪ね歩きました。その時、漁會職員に案内されたのが檳榔売りをしていたYさんでした。漢字による筆談と身振り、手振りで潜水漁をする事、年齢、お孫さんの話と、次のバスが来るまで1時間程、見知らぬ来訪者に付き合ってくれました。
2回目の訪問は、2016年の春でした。友人に通訳を頼みインタビューをした時、Yさんに「この土地を離れたいと思った事はありませんでしたか?」と尋ねました。利発でフレンドリーなYさんがずっとこの地に留まっていたとは思えなかったからです。
「ここでは、海でテングサを採る以外、選択肢はないからね。娘5人、息子1人、全部ここから出してやったよ。娘には海に行かせたくなかったからね」と、Yさん。
何故この地を離れなかったのか、あるいは離れられなかったのか、その時は、知るよしもありませんでした。そして今夏が3回目の訪問でした。一人住まいの家の入り口には、私が持参した吊るし雛が飾られ、彼女の優しさを垣間見る思いがしました。
日焼け、クラゲ除けに手製の覆面を着けて潜る台湾の海女(撮影:齊藤典子) |
私が海女のライフヒストリーの収集に伊豆半島の海村を歩き初めてから20年が経ちます。その中で試行錯誤を重ねたのは、話者とインタビュアーとの「位置関係」と「距離」でした。研究生活に入る前の私は、新聞社で技術雑誌を作っており、毎年80人以上の技術畑の男性から技術についてヒアリングをしていました。そんな経験から、インタビューには、多少の自信はありました。しかし、海女さんにお話を聞こうとしても海の美しさや腕前の自慢はしても金銭、家族、喜び、悩みといったプライベートの話や苦労話はほとんどしません。そこからは、弱音を吐かない強靭な海女のイメージしか伝わってきませんでした。
「位置関係」とは、主体と客体との関係です。もちろん質問攻めにして相手を困惑させ、インタビュアーが主導権を握るばかりでは、心を開いた話は聞けません。しかし、質問をしない限りは、ただの雑談で終わってしまいます。「距離」とは、相手とどれくらい近しくなるかという事です。あまりに親しくなってしまうと、情が優先され、客観的な判断ができなくなるのではないかという不安がありました。
ある時、アフリカ暮らしの長い友人が「仲間内の話、特に悪口を告げるようになったら、受け入れてくれた証よ」と、アドバイスしてくれました。しかし、ライフヒストリーを聴かせていただく事と、仲間の悪口を告げられる事では、心を許す点では同じでも、相手が語る内容の本質は異なります。調査を重ねる内に30年分の家計簿を見せて下さったおばさん。戦死した夫の親を残し実家には戻れずに、嫁ぎ先の養女として再婚したおばさんなど、多くの海女の人生の軌跡を知る事ができました。そして、インタビュアーの役割は、相手の人生の語りに寄り添い、相手の心の機微を掬い取り、共感することだと悟りました。
潜水漁の前に紙銭を撒く海女(撮影:沈得隆) |
ひょんなことから聴かせていただいたYさんの「恋バナ」には、彼女の心の中にしまい込まれた想いがあったに違いありません。親を想い故郷を捨てる事を諦め、その時の想いが子どもたちに好きな道を選ばせたのでしょう。そして、人生を懸命に働いてきた一人の海女の心に今も燦然と輝く大切な思い出がある事を知り、私も嬉しくなりました。
(注)神奈川大学「国際常民文化研究機構」共同研究(藤川美代子代表「台湾の「海女(ハイルー)」に関する民族誌的研究―東アジア・環太平洋地域の海女研究構築を目指して― 」)
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