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[エッセイ12:ひょんなことからNo.6]引き継がれる権力関係?への気づき:ある生産者との会話から(濱田 琢司)
2019年05月03日
[ひょんなことから06]
引き継がれる権力関係?への気づき
ある生産者との会話から
濱田 琢司
関西学院大学文学部・教授/人類学研究所・非常勤研究員
私の研究の関心の第一は,民芸運動という文化運動と地域文化との関わりにあります。民芸運動というのは,大正時代の末期にスタートした,工芸をめぐる文化運動です。白樺派に属していた柳宗悦という思想家が中心となり,それまでは美的な対象とされてこなかった,民衆の日用使いの雑器に,美術的な工芸品に負けない美があるのだ,ということを主張した運動でした。当初は,都市部に残る一昔前の日用品を主な対象としていましたが,その関心は次第に,同時代の地方産地の現行品に移っていきました。その結果,民芸運動とは,都市(中央)の知識人が,地方に残存する旧来的な(伝統的な)手仕事を価値付ける運動として展開していくことになります。私が追いたいと考えたのは,このような段階における,運動の産地への影響はどのようなもので,それがどのような形をとってあらわれたのか?,ということでした。
この研究は,もう四半世紀近く前の修士論文執筆の時から継続していますが,その最初の調査地は,福岡県の小石原(こいしわら)という焼き物産地でした。ここには,戦前期から民芸運動の同人が訪れていた記録がありますし,戦後には,産地側でも,民芸運動と関わりのある産地という認識を持つようになっていきます。
この小石原村という生産地(現在は,合併して東峰村になりました)では,当時で人口1300人くらいの小さな村のなかで,50軒ほどの焼き物事業者がありました(事業者の数は,現在も大きく変わっていないはずです)。そこで,村の商工観光課,教育委員会,そして,陶磁器組合の組合長さん,といった感じで,聞き取りの調査を始めていきました。
ところで,先の民芸運動ですが,ここには,柳のほかにも多くの人々が関わっていました。そのなかでも,運動創始からのメンバーに,河井寬次郎と濱田庄司という二人の陶芸家がおり,柳を含めたこの3人は,長く運動のシンボル的な存在でもありました。このうちの濱田庄司という陶芸家は,じつは,私の祖父にあたる人物でもありました。そのため,こちらがとくに出自を明かさずとも,聞き取りの過程で,その関係を示さざるを得ないことが大半でした(もちろん,最初からそれを明確にした上で,お会いすることも多くありました)。
当時の小石原の陶器組合長であった梶原藤徳(かじわら ふじのり)さんも,そのようにして,結果的に祖父との関係を含めた形で,お世話になることになった一人でした。大酒飲みでもあり,私もずいぶんと飲まされましたが,よくよくお話をうかがってみるととても重要なことを気付かせてくれるような方でもありました。その藤徳さん(小石原には,梶原姓が複数ありましたので,ファーストネームで呼ぶことが通常でした)から,柳,河井,濱田ら民芸運動同人との関わりなど諸々と聞き取りをしていた時のこと,柳ら運動同人による(当時の)現行品の小石原作品に対する評価のことに話が及びました。
藤徳さんの窯場・工房(2005年ころ) |
藤徳さん自作の大皿をみながら話をうかがっていたときのことです。この大皿には,小石原の伝統技法の一つであるハケ目というシンプルな装飾のベースの上に,「打ち掛け」という,これまた旧来からの技法によって,皿の2箇所に釉薬を流し掛けたような装飾がなされていましたが,柳たちは,この打ち掛けによる装飾は「うるさい」ので不要だ,ハケ目だけで良い,と評したというのです。柳たちは,伝統的な装飾技法については基本的に積極的に評価をしていましたが,同時に,過剰な装飾は徹底的に嫌ってもいました。この評価は,実際に藤徳さんの大皿を評したわけではなかったのかもしれませんが(この点は,確認しそびれてしまいました),当該の皿の打ち掛けが,柳たちの目には,たまたま過剰なものと見えたのでしょう(ちなみに,柳たちは打ち掛けの施されたハケ目皿にも好意的な評価もしばしば残しています)。
ハケ目+打ち掛けの大皿(作品は隣接する窯業地で 同様の技法を用いている大分県小鹿田(おんた)の もの,日本民藝館にて) |
こうした柳たちの評価については,彼らが書いたもののなかにも時折見ることできます。ただ,この時の話には,個人的に考えさせられる続きがあります。藤徳さんから柳たちの評価の話をうかがったことを受けて,私は,その柳らの小石原評について(上から目線の批評ですねという意味で)「失礼な話ですね」と返しました。すると,藤徳さんは,やや気まずそうに「いや,そういうつもりで言ったわけでは...」とおっしゃりつつ,私に対してかるく謝られたのです。私は,その時には,何を言われているのかも理解できず,話がかみ合わなかったなと思いつつ,そのまま会話を続けてしまいました。そして,ずいぶん後になって,藤徳さんが私の「失礼な話ですね」を,「藤徳さんが柳らの評価に対する不満を述べ,それに疑義を呈した」と私が解釈し,「藤徳さんの発言が柳ら(というよりも濱田庄司を強く意識されたのでしょう)に対して「失礼である」と私が怒った」と受け取り,私に対して謝罪されたのだということに気がついたのです。
このことは,私にとっては,それなりに重要な体験でした。当時は,文化人類学や社会学,民俗学,歴史学などのなかで,柳の民芸運動が論じられる機会が多くなりつつあった時期でしたが,その際には,柳らの地域(住民)に対する態度を,「地域の実情を顧みない一方的なもの」として批判的に扱うものが多くありました。私は,民芸運動の担い手と近い出自を持ってはいましたが,学術的には,そうした議論から柳宗悦と民芸運動を学んでいましたので,濱田庄司も含めて,民芸運動の同人たちを,(その位置付けは,実際に正しいかどうかは置いておきつつも)「地域の実情を顧みない」人々とひとまず位置付けることに慣れきっていました。その前提からの発言が,柳らと直接・間接に交流を持ったことのある人々にとって,必ずしもそのままに伝わるわけではないということを知ったのです。また,私自身は,濱田の孫ではありましたが,ある種「客観的な分析者」として産地に接触していたつもりでした。しかし,実際には,そのようには見られない(考えてみれば,当然ですが)ということも,合わせて知らしめられたわけです。研究者のポジションという問題が,日本の人文諸科学においても論じられるようになっていた時期でもあり,この時のやり取りは,民芸運動の研究に自分がどのように関わるのか,ということを考えさせられる経験でした。
先に述べたように,この時から,もう四半世紀近い時間が経ちました。で,私自身は,結局,どのように自身の「ポジション」を位置付けたら良いのか分からぬまま今に至っているわけですが,それでも,この時に感じたことは,常に心のどこかに止めながら,研究を継続しています。他方,藤徳さんも5年ほど前に他界されたように,時間とともに柳らと地域との関係も変わり続けています。藤徳さんとの会話から考えさせられたことの答えを求めつつも,民芸運動と地域との関わりを,その変貌も含めて,今後とも見つめていきたいと思っているところです。
(写真は、すべて著者撮影のものです。無断転載を禁止いたします)