研究活動 活動報告
第2回公開講演会「日本と台湾の絆~台湾"日本語世代"のライフヒストリー~」実施
2018年05月23日
[日時]2018年5月23日(水)、11:05~12:35(開場10:50)
[会場]南山大学B棟3階 B31教室
[講演者]東俊賢氏
[司会者]藤川美代子(南山大学人類学研究所)
[講演要旨]
日本統治下の台湾に生まれ育った、いわゆる「日本語世代」の東さん。飛行機への憧れをもちつづけた少年時代。第二次世界大戦中は日本本土に渡り、少年工として特攻機の製造に従事しました。戦争が終わり、台湾へ帰ると、そこは中国大陸から逃れてきた国民党による支配の地となっていました。激動の台湾現代史を歩んできた東さんに、幼い頃の思い出をはじめとした個人史をお話しいただきます。
[報告]
1930年、台南郊外の山奥の村で生まれた東俊賢氏。台湾の歴史を交えながら、分かちがたく結びついたご自身と日本との関係について語ってくださいました。
日本人の警官から「子どもに日本名をつけたら豚肉を食べさせてあげる」と言われたという父親の話や、実家を離れて通った台南の公学校で「国語」の勉強や飛行機の模型造りをした話などは、台湾における皇民化とは具体的にどのようなものだったのかを、歴史資料とは異なる観点から明らかにしてくれるものでした。1944年、家族の反対をよそに自ら志願して少年工として日本本土へと渡航することを決めた東氏は、海軍航空技術廠で溶接を学び、台湾少年工の中でただ一人、特攻兵器桜花の製造に携わります。日本の勝利を信じてやまなかった東氏にとって、1945年の玉音放送はまさに青天の霹靂だったといいます。
東氏がやっとの思いで台湾へ帰ると、そこにかつての景色はありませんでした。日本に代わり台湾を統治することになった中華民国は、台湾の人々に北京語を基礎とした「国語」を話すよう迫り、社会の中枢は大陸からやってきた外省人によって占められたほか、白色テロでたくさんの台湾人が命を落とすことになったからです。そんななか、東氏は師範学校を卒業して小学校の教員となり、最終的には台湾と日本を股にかける技術者兼経営者となっていきます。
生き生きとした日本語で語られる東氏の個人史は、参加者に多くのことを考えさせてくれるものとなりました。講演には約210名が参加し、講演後には東氏と個人的にお話をしたい人で長い列ができました。
熱弁をふるう東俊賢氏 | 参加者 |